普通の会社員の思考

妻と子供(2人)がいる会社員のブログです。推敲なし。

8月18日土曜日

8時起床。子供と妻は実家に帰省中でいない。

 

登校日に持っていくはやの宿題でやってないものがなにか確認。国語の書き取り、課題が15個あるのを一回ずつ書けばいいと思ってたら、ノート一冊やらなければならないことに気づく。あとは絵と絵葉書か作文か貯金箱かを作って、絵日記に色塗って。

 

明日子供が帰って来てから、宿題を私が見る予定。

 

帰省前に私が仕事する横で、はやが宿題の絵日記を書いてて何て書けばいいか聞いてきた。先日サッカーの試合を見に行ったことを書いてて、「サンフレッチェに行きましたか、サンフレッチェを見に行きましたって書いたら。」「どっち?」「どっちでもいいけど、あと何マス?文字数が入るほう。」「行きましたやったら、サンフレッチェの試合にはやが出たみたいやん、見に行きましたやろ。」って。

微妙なニュアンスの違いを書き分けるんやと思って、小学校一年生なら普通なんかもしれんけど妙に感心した。

 

サイレンス~沈黙~見た

私は、ミッションスクールを卒業したからキリスト教に多少馴染みがあって、働きはじめてから仕事や人間関係が上手くいかないときに、神様にお願いすることが多くなった。それは、何かすがるものが欲しかったから。別に仏様でも、なんでもよかった。
一時期は教会にも行こうと考えてたくらいには、キリスト教について調べたりしたし、その過程で三浦綾子遠藤周作も読んだ。沈黙も読んだ。信じても救われないのか、納得する答えをそこから読み取ることはできなかったけど、精神的な支柱なしに生きるには毎日は難し過ぎた。

その後、夜と霧を読んだ。そこに、答えがあるような気がした。

『私達が生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問やめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。』

人生で困難にぶつかったとき、なんで自分だけがとか、あの時違う選択してたらとか、後悔や悔しさやいろいろな感情があるとき、それは生きることからの問いかけ、神からの問いの前に立っているんだ。生きることの意味を問うのではなく、生きることからの問いかけに答えていく。つまり、神からの問いかけ答えていく。

サイレンス見ながら、夜と霧にたどり着いた。

考えたこと、感じたことを未来の自分のために書く

今日からブログはじめるけど、なぜそう思ったのか書いとくと、過去にライブドアでブログ書いてたのが、社会人になった時から結婚するまでだから6年間。結婚するにあたって、いろいろと内面を書いてたブログだから、妻と一緒に住むようになって何かのひょうしに読まれたら嫌だなと思って消した。

その後、mixiで非公開の休日の行動を記録する日記を書くようになった。これは大学生の頃、NHKのホリデーインタヴューという番組で石田衣良がフリーター時代に行動だけを記録した日記を書いていたと言っていたから。うる覚えで違うかもしれないけど、その時期石田衣良は気が滅入っていた時期で、自分を客観視するために書いていたとかそんなことを言ってた気がして、私もその頃職場の異動で仕事が上手くいかず、かなり気が滅入っていて書き始めた。それは今でも、6年半続いている。ときどき読み返すけど、ほとんど感情は書いてないのに、記録を読むとその時の感情がよみがえって、あの時の自分を思い出すスイッチになる。

ただ、思い出せるけど、日々考えたこと、感じたことをきちんと言葉にまとめて、記録する場所が欲しいなと思い、ここに書いてくことにした。

未来の自分のために、今の自分を書く。